霧雨

湿った空気が優しく頬をなでて、彼は目を覚ました。
窓を開けたまま、眠ってしまったらしい。外は、まだまっ暗だったが水の匂いがした。
雨の音はまだしないので、霧雨がこの空気の中に水の匂いを満たしているのだろう。
冷たいはずの空気なのに、彼にとってそれは懐かしい、日常の空気。
広い世界を、霧雨が覆って水の薄衣をかけて色を変える。 いつもの乾いた固い風景が、とたんに柔らかく優しいものとなって彼を包みこんでくれる。
ゆっくりと起き上がり自分の隣を確認する。
まだ眠ったままの姜維を見て、微笑した。


「疲れてるだろう?」
「だいじょうぶ。・・・たぶん。」
いつもは遠慮する費禕も、今回ばかりは自信がない。だから「たぶん」と。
なんだって漢中までついてきてしまったんだろう。
「成都とは違うんだ。無理するな?」
「いや、だいじょうぶですよ。」
にっこりと笑って姜維を見上げた。
たしかに長い行軍に疲れてはいる。でも、姜維たちに比べれば・・・。
自分は室内の暖かい場所での公務程度であり、姜維たちはこの寒空の下、外で調練だ。
「大丈夫です、行ってください。私が足手まといに思われても嫌ですし。」
「ああ・・・。」
姜維は、座ったまま見送る費禕を振り返りつつ部屋を出て行った。

そもそも、漢中まで一緒に行くと言い出したのは費禕だった。
まるで無理矢理見つけたような無理矢理な公務。
でも、姜維は少し嬉しかった。
「ああ、伯約・・・」
夏侯覇が、姜維を見つけて寄ってくる。
「文偉殿はだいじょうぶか? なんか昨日からふらふらしてたぞ。」
「ああ。でもだいじょうぶだから行けって。」
「夕べ到着した後、お前の相手をしていたんだろう?あー、ご愁傷様。」
夏侯覇はからかうように言った。
「気づけば酒宴の中、二人ともいないんだもんなー。」
「・・・・・・・」
それについては姜維は何も言えない。
確かに言われたとおりだったからだ。
昨日到着した後、酒宴は早々に抜け出し、そして・・・
ずっと行軍中、手の届く距離にいながら避けてきた反動から、いつもよりも激しい行為だったことだけは確かだ。


今でも彼の声が耳元でよみがえる。
艶やかな甘い声と、そして切なげな吐息。
唇をよせ、優しく口づけながらささやきかけた睦言の数々。
それじたいはいつもと同じなのだったが、違う場所、違う天井、違う牀・・・何故か、いつもより熱くなった。
で、結果、いつもよりしつこく、激しい行為になってしまったと・・・


思わず赤くなる姜維だが、これ以上夏侯覇にうるさくからかわれるのも面倒だなーと思っていたところに、援軍が来た。
「仲権殿、なに姜将軍をいじめてるんですか?」
「あ・・・思遠~」
「良いところに来た! こいつを頼む。」
「嫌だけど了解。」
うるさい夏侯覇を諸葛瞻に押しつけ、そしてとっとと逃げる。
費禕が気になったものの、やはり自分が引っ込んでいるわけにはいかないわけで。

その頃費禕は、開け放たれた窓に腰掛けながら、庭を眺めていた。
なんとなく体が重苦しい。
「伯約のバカ・・・・」
だが、そうつぶやいて少し嬉しそうに笑う。
霧雨はやむことが無く、漢中の丞相府の庭は水を浴びて、いつもとは別の色彩を放っている。
冬なのに、残っている葉の濃い緑と、少しだけ咲き始めたろう梅の鮮やかな黄色、そして木の幹の深い色がいつもよりもより鮮やかになって費禕の目を楽しませていた。
・・・漢中に、来たかったんだ
ここにはいろいろと思い出がある。
胸の痛い思い出から、嬉しい思い出。
ここに来ると、昔を思い出す。
・・・だから、来たんだ。伯約は覚えてないかもしれないけどね。


ああ、いかんなあ・・・姜維はつぶやいた。
横にいた張翼が不審そうな顔を向けたが、姜維は気づかない。
そう、ここは漢中。いろいろ思い出のある場所。
だからあんなに熱くなってしまったんだ。
「いまごろ文偉・・・のびてるんじゃあ・・・・」
「あのー、えへん。」
張翼が姜維の顔をのぞきつつ言う。
「とりあえず、今は調練の真っ最中です・・・」
「・・・・・・・・」
めずらしい出来事・・・姜維がこんなとき別の事を考えてるなんて・・・とは思ったものの、一応遠慮がちに言った。
「す・・・すまん・・・」
「いいえ。珍しいですね。こんなときまでご心配とは。」
「ああ。」
まさか、その半分がじぶのせいだからとは言えない。
うすうす感じている張翼もそれ以上は追求しなかった。
・・・でも、姜将軍、あなた今日、使い物になってませんよ・・・
心の中でそっとつぶやくだけにして。


調練の一日は、姜維にとっては地獄のように長かった。
この上魏軍が攻めてきたぞ出兵!とかなったらぶち切れたかもしれない。幸いそれは無かったのだが。
「文偉!! 戻ったぞっ!!」
「ああ、伯約、おかえりなさ・・・・」
最期まで言い終わる前に、唇をふさがれた。
冷たい唇、そして冷え切った体・・・・。
費禕は姜維の首にぶら下がるように腕を回すと、少し唇を離して、また口づけた。

「・・・寒かったでしょう?」
唇を離してから費禕がたずねる。
「冷たいですよ?」
「ああ・・・悪い、文偉までぬれてしまったな?」
着替えを手伝いながら費禕は首を振った。
「このくらいかまいませんよ。私は暖かところでぬくぬくと仕事をしていた訳ですから・・・」
でも、仕事のスピードの速い費禕のこと。
実は午前中にすべてを終わらせ、午後は本当にぬくぬくぼんやりしていたのだった。
「夕べはごめん。・・・体調は?」
「ゆっくりしたから平気。伯約こそ・・・なんか、今日はぼーっとしてるって報告が。」
にこにこしながら費禕が言う。
・・・やっぱり抜け目ない・・・
そうやって、なんでも費禕に報告する人間は宮廷内にも外にたくさんいる。
誰かしらが情報をもたらせたのだろう。
「今宵はダメですよ。・・・私ももう少し漢中にいますから、今夜はゆっくり休みましょうね。」
先に釘をさされ、姜維は少しがっかりした。
まあでも。
「一緒に寝て良いよな?」
「それはどうぞ。」
だったらこっちのものだ・・・・と、姜維は内心思った。
「なにかしたら、明日には成都に帰りますからね。」
にっこりと。だが釘どころか杭のような言葉にがっくりと肩を落とす。
「さ、食事に行きましょう。皆さん待ってますよ。」
費禕はそう言うと、姜維の腕を取った。


外は、霧雨が本格的な雨になっている。
丞相府を歩く二人の足音も、その雨に吸い込まれるように静かだった。
「今夜は雪になるかな?」
「この暖かさでは雨のままだな。」
「そう、良かった。・・・雪の中での調練は大変ですからね。」
遠くを見つめてつぶやく費禕。
・・・怪我でもされたら心配で、成都に戻れなくなりますしね。
「さ、行きましょう。」
「ああ。」

二人は静かに、薄暗い渡り廊下を歩いていったのだった。


終わり


久々のほんと久しぶりの伯文。ほのぼのもいいねー。でも、同じタイトルの話があったような。雨って書く上では好き。


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